2021.07.04
平野啓一郎 vol.1
7月4日の文化百貨店のゲストは、小説家の平野啓一郎さん。今回は、5月に発売された新作『本心』を中心に伺いました。
自分の持つ“色んな顔”を言語化した【分人主義】という概念
【山崎】新作『本心』の紹介文に「四半世紀後の日本を舞台に、愛と幸福の真実を問いかける、分人主義の最先端。」という言葉があります。“分人主義”は、平野さんの一環したテーマだと思うのですが、この言葉について教えていただけますか?
【平野】“個人”という言葉に対して、“分人”という概念を提唱しているんです。基本的に“個人”というのは「首尾一貫した1つの人格を備えていて、どこに行っても同じ」でその人の個性という事だと思うんですけど、“分人”は対人関係や環境ごとに色んな自分に変化していく「分化した人格の集合体として1人の人間を捉えましょう」という考え方ですね。それによって自己肯定や自己否定など、自分の状況を客観的に整理することが出来るのが1つの利点で、相手によって“好きな分人”になれることもあれば、“ストレスが溜まる分人を抱える事がある”というのを考えていくための1つのモデルですね。
【山崎】これは、「なぜ思いついたのか?」というか……。なぜ、こういう事に気が付いて発表する事になったんですか?
【平野】1つは、対人関係の中でコミュニケーションを上手く成立させようとすればするほど、どうしても“その人向けの自分”にならざるをえないという事ですね。その一方で、色んな自分になってしまう事にネガティブな感情も持っていました。人の思惑に翻弄されていて、「本当の自分を生きていないんじゃないか?」 という思いもあって、“本当の自分が1人だけ”というのは、苦しかったんです。
もう1つは、就職を具体的に想像しながら「何の仕事をしたいのか?」と考えた時、“本当の自分はどういう人間”で、”本当にしたいことは何か”を考えないといけないんですけど、1つに見定める事は非常に難しいんですよね。しかも、就職や終身雇用というものが大きく変化してきていて、自分が「こんな人間なんだ」と思い定めても、その仕事を全う出来るのかは分からなくなってきている。そういう中で、むしろ人間は色々な“自分”を備えていて、その全てを“本当の自分”と捉えた方が現状に合致しているのではないかと考え出したんです。
なんとなく自分には色んな顔がある事をみんな自覚していると思うんですけど、言葉を与えないと「何となくそう思う」という以上の話にはならないと思うので、“分人”という言葉を提案したんですね。
【山崎】僕は、デザインやコミュニケーションの部分でブランディングを仕事にすることが多いんですが、10~15年前の企業は、どんなコンタクトポイントにおいても「同じ姿勢であるべきだ」みたいな感じだったんですね。ただ、5年程前にサードウェーブの流れが来た辺りから、多面的に企業をデザインしたり、アイデンティティーを作っていくような考え方が出てきているんです。その考え方と“分人”というのが、時代の大きな流れとリンクしているような気がします。
【平野】十数年前に“分人主義”を言い出したんですけど、そうは言っても「私は私なんじゃないか?」という抵抗感も最初はあったんですよ。だけど、ここ10年くらいの状況はすごく変わりましたよね。色んな人と交わっている時に、色んな顔を見せていたり、色んな言葉遣いで語っている事が、インターネットによって可視化されましたしね。
【山崎】SNSは、特に分かりやすいですよね。
【平野】僕はそこまでしないですけど、若い子の中には複数のアカウントを持っていて、“匿名の物~学校の友達向けの物”といった具合に、自然に“分人化”しているような気がします。
“どの分人で死を受け入れるのか?”という問いから生まれた『本心』の設定
―『本心』あらすじ―
舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。
最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子は、
「自由死」を望んだ母の、<本心>を探ろうとする。
母の友人だった女性、かつて交際関係のあった老作家…。
それらの人たちから語られる、まったく知らなかった
母のもう一つの顔。
さらには、母が自分に隠していた衝撃の事実を知る── 。
【山崎】最近だとカズオ・イシグロの『クララとお日さま』もそうでしたが、“近未来における人間と他者の関係”が、大きなムーブメントになっているような気がしていて、『本心』はその中の一番Hotな部分という感じがしています。自分の両親世代や祖父母世代の終わり方もリアルに見ていると「これ、正しかったのかな?」って思うところも多かったりするので、そういう所も自分で客観視しながら読んでいたのですが、この設定には分人主義を伝えていく事が根底にあるんですか?
【平野】分人主義の最初の発想はニュートラルな物理的な概念で、”自分が対人関係の中で、人格が分化していく事実“として提示しています。その中で、どういう事が良いのかとなると「なるべくストレスのない分人を生きる時間が多くなるような人間関係なり、状況を整理していくのが良いのではないか?」という助言になっていくんですね。そうやって考えていくと、人間が死ぬ時に“どの分人で死を受け入れるのか?”という問いに、突き当たらざるをえないんです。
そして、最期の瞬間を“幸福な分人で死を迎える方が良いんじゃないか?”と考えた時に、「誰と一緒の時の自分がいいのか?」「どこにいる時の自分が良いのか?」などと突き詰めていっても、自分の死のスケジュールを自分で決められない。では、果たして社会は、死ぬタイミングを自分で決定する事を許容するような社会制度になり得るかというのを哲学的な問いとして考えたかったんですね。
【山崎】そういう所が出発点だったんですね。小説の中に印象的なキーワードの 1 つとして、“最愛の人の他者性”という言葉が出てきます。これをキーワードにされた背景は何だったのですか?
【平野】愛する人だからこそ、“理解をしたい”という気持ちや“理解が欲しい”という事が多くあると思うんです。だけど、全てが分かるわけで無く、どこか分からない所があるのが“他者”ですよね。愛する人だって他者だし、分人主義的に言うと知らない面はたくさんあるはずなんです。自分が賛同しえない事を考えたり、決断した時に、“全てを受け止めて同意する事が愛なのか?”“介入する事が愛なのか?”を考えたかったんですよね。その時に、”他者性“がすごく重要になってくるのではないのかと思いました。
【山崎】『本心』は、舞台が 2040 年代の日本。貧困や分断、孤立化などの課題がより顕在化した世界を描かれています。近未来を舞台に、現実感のある物語にした理由は何だったのですか?
【平野】僕はいわゆるロスジェネ世代ですから、自分たちの世代が年寄りになった時のことを戦々恐々として見ているというか。”老後に2000万貯めないと…”という話も少し前にありましたけど、状況的にそれだけ貯金が出来ている人ばかりではないし、人数も多いですし。そういう中で「いつまで生きるのか?」という、社会のまなざしが、強く内面化されてしまうことを懸念しているんです。だからこそ、“生きるということ自体が、尊いことなんだ”という事を、今から相当考えておかないといけないと思っているんですけど、日本の財政も厳しくなっていくし年金制度も破綻に近づいていく。自分たちの老後は、シビアな世界になっているだろうと現実的に考えていることが1つの理由ですね。
それと、10歳と8歳の子供がいるんですけど、彼らが社会の中心になって活躍する30歳前後になった時の事を真剣に考えると、寓話的な未来よりも現実的な未来を描きたいという思いもありました。
【山崎】未来というのは、設定も制度もどうなっているか分からないじゃないですか? 『本心』を読んでいて、絶妙なリアリティだと思ったんですけど、意識されたことはあるんですか?
【平野】SFなんかでは1つの技術だけが突出していて、人間の考え方自体はあまり変わっていないみたいな話もありますけど、それは「変だな」と思っているんですよ。“色んな事が変っているなりに、人間の意識も変化している”と考えながら、全体像をムードとして捉えていく事はありましたね。
これを言うと怒られるのかもしれないですが、専門領域の人に話を聞いても詳しすぎるが故に「技術的に、そんな事ができるはずない」とか言われることがあるんですよね。だけど、この20年くらいの世界の進歩を見ていたら、専門領域にいる人たちが「それは、無理だろう」と思っている世界を軽々と超えて行っている状況なんですよね。もちろん専門の人の話を聞かないと想像できない所はあるんですけど、なおかつイマジネーションで補わないと限界がある感じがしますね。
死の自己決定権を考える上での“自由”という言葉の両義性
【山崎】新聞連載時には“自由死”を“安楽死”という言葉で表現されていたんですよね。それを書籍化のタイミングで変えたそうですが、この2つの言葉をどう捉えて、変更をされたのですか?
【平野】”自由”という言葉は、もともと解放感のある肯定的な言葉だったはずなのに、新自由主義以降は”自己責任”と結びついたネガティブな響きもあって、今では両義的になっていますよね。この“自由”という言葉の両義性が、死の自己決定権の問題を考えていく時に、すごく良いのではないのかなと考えて、現行の“安楽死”と概念的に区別するという意味合いもあって、単行本では“自由死”という言葉に変えました。
安楽死を合法化している所やそれに向けて動き出している所では、かなり厳格な条件を定めて認めようとしているんです。具体的には不治の病などで、生活や人生に難渋をしているような人たちが対象になっています。でも、それは一種の“社会的弱者”ですよね?安楽死の問題や死の自己決定権の問題を議論していくと、そういう人たちに「いつまで生きるのか?」という問いを押し付けるような、非常に恐ろしい優生思想的な発想になってしまっている所があるんですよね。だから、死の自己決定権を議論するのだったら、人間全体の問題として考えなければいけないと思っています。
【山崎】『本心』の中には、安楽死をテーマにした森鷗外の『高瀬舟』についても出てきます。日本人にとっての死生観は、どんな変化をしていると思いますか?
【平野】あまりにも壮大な問いなので簡単には答えられないですけど、お墓を作るようになったのはそんなに昔ではないですし、そういう中でも死生観は変遷していますよね。森鷗外という人は医者でもありましたし、明治の社会制度の設計にも、文学者としても1人の官僚としても関与していたので、死というものをあの時代の他の作家とは、全然違う捉え方をしていますよね。
最近、 “剥き出しの生”いう言葉で議論するようになってきていますけど、『高瀬舟』の兄弟は生きているだけというか、まったく人間らしい生活を送れない貧困状況におかれているんですよね。国家がその“生”を気にせず、生きていても死んでも構わないという状況においているにも関わらず、弟を自殺幇助すると兄は殺人罪として刑罰の対象になるという事に、鷗外は大きな矛盾を見ていたんだと思います。
【山崎】相対的な価値観というような気もしますよね。最近だと、少し何かがあったっただけでSNSでの自分の1つの分人を消してしまうという感覚も生まれてきているというか……。そういう中で、自分自身の死をどう捉えているのかも、若い世代にも聞いてみたいなと思いました。
【平野】SNSでミュージシャンとか映画監督の訃報が流れてきて、「亡くなって残念です」みたいなことをみんなが書いているような流れもありますよね。僕もそういうツイートをしたりしますけど、その感じもうまく言えないですけど、新しい気がしますね。
【山崎】それはすごく分かります。僕はヒップホップをずっと聞いていたんですけど、誰かが亡くなると“R.I.P(Rest In Peace)”というのを流すじゃないですか?あれが、すごく不思議な感覚なんですよね。すごくファッション化しているというか。
【平野】ファッション化していますよね。それを機会に、またCDが売れたり音楽が聞かれたりしますよね。必ずしも悪いとは言い切れないけど、何か微妙な感じもありますね。
【山崎】違和感というか……。話を戻しまして、『本心』は連載中にコロナ禍になりましたが、作品の世界観や物語に影響はありましたか?
【平野】あまりなかったんですけど、僕が書こうとしている世界をよりよく理解してくれた人はいましたね。日本人の男性はある時から、母親にほとんど触れることが無くなるという事に関心を持ったんです。『本心』では、触れることなく母親を失ってしまった後、バーチャルフィギュアとして復活させるのですが、音声や視覚的には再現できても、“触れることが出来ない”というのが大きなテーマだったんです。
コロナになって身体的な接触というのは激減しましたので、その辺は書きながら改めて自分の中で意識化したところはありましたけど、ストーリーライン自体が大きく変わるというほどではなかったですね。ただ、精神的にも経済的にも肉体的にも、本当に皆がダメージを受けているので、あまり絶望的な終わり方には出来ないなとは思いました。
【山崎】最後に少し匙加減が変わったという感じですかね。今日のお話を聞いて、平野さんの本を読んでいるような印象になった方もいるのではないのかなと思いますが、『本心』は、すごく読みやすいですし自分のことを投影しながら読める本なので、ぜひ読んでから、改めて今日のお話を聞いて頂ければと思います。
といったところで、今週の文化百貨店は閉店となります。次回も、引き続き小説家の平野啓一郎さんをお迎えし、創作面の話などを伺います。
今週の選曲
平野啓一郎さんリクエスト
Vera Cruz / Larry Coryell
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